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東京地方裁判所 昭和36年(タ)221号 判決 1963年5月27日

原告(反訴被告) 甲郎

右訴訟代理人弁護士 梅沢秀次

被告(反訴原告) 乙子

被告 月尾コヒサ

右被告両名訴訟代理人弁護士 坂井貞一

右被告輝子訴訟代理人弁護士 重富義男

右訴訟復代理人弁護士 関根栄郷

主文

原告(反訴被告)と被告乙子(反訴原告)とを離婚する。

原告(反訴被告)と被告乙子(反訴原告)との間の長女美晴の親権者を被告(反訴原告)乙子と定める。

被告(反訴原告)乙子は原告(反訴被告)に対し金三〇万円並びにこれに対する昭和三六年一〇月二六日以降右金完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

原告(反訴被告)のその余の請求を棄却する。

原告(反訴被告)は被告(反訴原告)乙子に対し財産分与として金四〇万円を支払え。

被告(反訴原告)乙子の離婚請求、慰藉料請求はこれを棄却する。

当審における訴訟費用はこれを五分しその一を原告(反訴被告)の、その余を被告(反訴原告)の負担とする。

本判決は原告(反訴被告)において金五万円の担保を供するときは主文第三項に限り仮りに執行することができる。

理由

原告と被告乙子が昭和二八年五月二六日事実上の婚姻をして同棲し、昭和二九年一〇月二〇日婚姻届を了したこと、昭和三二年頃被告乙子が三河島に月尾診療所を開設して同診療所において診療に従事したが、原告が昭和三三年九月単身で新潟県中魚沼郡津南町所在の大割野病院に赴任し、被告乙子が同日付をもつて離婚・慰藉料請求、財産分与を求める調停申立をなしたことは、弁論の全趣旨から各その成立を認め得る甲第一、第二号証並びに原告本人(第一、三回)、被告本人の各尋問結果によりこれを認めることができる。

原告及び被告乙子は、離婚請求の原因としてそれぞれ相手方から悪意で遺棄されたと主張し、原告は更に本件婚姻にはこれを維持し難い重大な事由があると主張するので、先ずこの点について判断するに、弁論の全趣旨からその成立を認め得る甲第四号証、被告乙子本人の尋問の結果その成立を認め得る甲第三号証≪中略≫を綜合すると次の諸事実を認めることができる。原告は、婚姻後、学位をとるため日本大学医学部若林外科教室に通つて研究をなす傍ら、大石病院、次いで木村病院に勤務して、いわゆる内職をなし、被告乙子は医師として婚姻前から勤務していた大石病院に、続いて三河島済生病院に勤務し、長女美晴の出産した昭和二九年一〇月頃までは両名は比較的円満な生活を送つていた。被告コヒサは被告乙子から、その結婚後も、月々若干の送金を受けていたが、原告が結婚後も研究室に通い、収入が尠く、夫婦の生活が主として被告乙子の収入に依存していることに不満をもつていたので、美晴出生を機会に、このままの状態では美晴の養育方法に関連して経済的にも困難を生ずるとして、原告夫婦の生活方法に容喙し始め、原告の収入が尠ないこと、原告の親族が美晴の出生に関心を示さなかつたことを取り上げ、原告に対して研究室勤務をやめて臨床医として給料を得ることを強く要求し、且つ原告の親族に対する経済的援助をなさないことを原告に約させた、原告は内向的な性格なので、被告コヒサの要求に対して心よからず思つたが、被告乙子もこれに同調したので表面上強い反対も表明することなく、被告コヒサの言に従い、同年一二月頃研究を中断して茨城県所在の宮内炭鉱診療所に就職し、被告乙子と別居生活に入つたが、被告乙子が被告コヒサの要求で秘かに送金していることを知つていたので、少くとも自分の収入で被告コヒサに経済的援助をすることはしたくないと考えるに至り、次第に家庭生活に対し消極的となつてきた。原告は右診療所に勤務中被告輝子に対して送金を続けたが、昭和三〇年一二月頃、別居生活はいけないとする若林教授のすすめで右診療所をやめ、都内日本橋に被告輝子と同居する生活に、希望をもつて戻り、同所から通勤し得る川崎市、次いで都内の医院に就職した。その間被告コヒサは被告乙子に対して送金の少ないことを責め、原告に将来性がないとして強く離別をすすめた。被告乙子もその性格が比較的強い方で一時は被告コヒサの右態度に反発し、原告も懸命に働いているし、医師として経済的に有利な開業を目指して目下努力中である旨、被告コヒサの意図は子供の幸福を考えない酷なものである旨を手紙に認め、被告コヒサの態度を非難しようとしたことがある程であつたが次第に被告コヒサの影響を受けて積極的に原告に対するようになつた。昭和三一年七月原告夫婦は都内千住八千代町に別紙目録記載の家屋を購入して移り、原告、被告乙子とも勤務を終えて帰宅後、更に同家屋で夜間診療に従事して働いた。ところが昭和三二年末頃三河島済生病院が廃止となつたので、被告乙子は同病院に永年勤務した関係上附近の人々に医師として名を知られていることを利用し、同所に新たに診療所を開設することが経済的に有利であると考え、先ず被告コヒサと相談のうえ、被告コヒサ名義で同所附近に診療所のための家を借り受け、原告にその相談をした。原告は既に別紙目録記載の建物において診療所を開設していたので反対したが、既に家も借り受けており結局資金関係は被告コヒサから受けており、原告に迷惑をかけないし、開業が経済的に有利であるとする被告乙子の主張に対して、内心不服のまま表面これに同意し、右診療所の名称についても、被告乙子が前記済生会病院において旧姓の「月尾」を使用していた関係上、月尾診療所と名付たいとする被告乙子の主張もこれを容れた。被告乙子は月尾診療所開設後暫くは住所から通勤していたが、昭和三三年二月開復手術を受けた後、体力の問題もあつて原告の承諾のもとに、右診療所に宿泊し、その後間もなく住所において勤務していた女中神山和子も右診療所に宿泊させるようになつた。被告コヒサは依然原告を嫌い、上京して被告輝子のいる右診療所を訪れた際、原告が感冒のための注射を被告乙子に求めるのをみてこれを妨げて、看護婦にやらせるべきであると主張したり、原告と被告コヒサの仲は険悪化された。被告乙子も、被告コヒサに同調し、原告になんら相談なく両被告で温泉に出掛けたり、映画に出かけて、原告の食事の準備をしなかつたこともあつた。そこで原告は被告乙子に対しても急激に内心の不満をつのらせ、被告乙子から原告所有名義の別紙目録記載の家を売却して、月尾診療所か、または附近に家を借り受けて同居し、専ら右診療所か、または附近に家を借り受けて同居し、専ら右診療所の育成に協力してほしいとの要求をされたが、これを不快な感情で受けとり、積極的な反対意見は述べなかつたが拒絶した。その間被告乙子は一時八千代町所在の家から通勤したが同年五、六月頃からは通勤して働くことが不便であるとして再び月尾診療所に宿泊し、同所から八千代町所在の家まで原告の食事を運び、洗濯等に帰るに過ぎない生活になつた。原告は当時八千代町所在の家から銀座所在の呉医院に内科医として勤務していたので、右のような生活に強い不満をもつたが、被告乙子に対し積極的に診療所経営をやめさせるとか、宿泊をやめさせるとかの言動にはでず、専ら、うちに不満を欝積させており、却つて将来のため専門である外科医として勤務したい希望を強めてその就職先を探し、同年八月頃、被告乙子に相談なく新潟県中魚沼郡津南町所在の大割野病院への就職をきめた。被告乙子はこれを知り、同年九月八、九日頃実父母、媒酌人佐々木貞子、原告の友人三谷幸蔵らとともに原告に対して大割野病院への就職を取り止めて被告乙子とともに月尾診療所の育成に協力するよう求めた。しかし原告は既に就職を決定した後のことであるから取り消し難いとの理由で、これを拒絶し、同月一〇日新潟に赴任した。そこで被告乙子は同日付をもつて東京家庭裁判所に対し、離婚及び財産分与、慰藉料支払を目的とする調停の申出をなし、その後右調停継続中に原告の先生である若林教授に対し、原告が妻を棄て、他の女性とともに新潟に赴任した旨の虚偽の書簡を差出した。原告もこれを知つて被告乙子との婚姻生活を断念した。右認定に反する原告本人尋問の結果(第一、二回)部分、被告等各本人尋問の結果部分は信用できず、他に右認定を覆するに足る証拠はない。

右の認定諸事実からすれば、先ず、原告主張の悪意の遺棄については、なるほど、被告乙子は八千代町所在の家において夫婦として同居生活をしたいとする原告の内心の希望に反して月尾診療所に宿泊するに至つたことを認めることができるけれども、被告乙子が原告との同居又は双互扶養を拒絶していたものとは認め難く、却つて被告乙子も、その生活の場所は異るけれども、依然原告との同居、協力を強く希望していたことを認めることができる。したがつて被告乙子が原告を遺棄したと解するためには、被告乙子の同居要求が、原告に対し難きを強いるものであること、並びに被告乙子においてもこれを知り得べき事情にあることを要するところ、前記認定の諸事実からすれば、原告の同居拒絶の主たる理由が、被告乙子に独立した診療所の経営を表面許しながら、内心で被告乙子を信ぜず、生活の主導権を被告乙子に移す結果になることをおそれたためであることを窺知し得るのであつて、被告乙子において、右診療所を中心とした夫婦同居生活を原告に強いることが酷であるとの事情及びこれを当然知り得べき状態にあつたとの事情は認め難く、他にこれを認め得る資料はない。したがつて被告乙子が原告の許を離れて前示診療所に宿泊するに至つた行為は原告に対する悪意の遺棄とは認め難いところである。

次に被告乙子主張の悪意の遺棄の点について考えるに、上段認定のように、原告は被告乙子の同居要求にかかわらず被告乙子と別れ、大割野病院に赴任したのであるけれども、原告が被告乙子を同伴することを拒絶した(この点に関する被告乙子本人尋問の結果は信用できない。)と認め得る証拠はない。そうすると原告において悪意の遺棄があるとするためには、上叙判示と同様、被告乙子に対し大割野病院に勤務する原告に従い同居することを期待することが酷な事情の存在を必要とするものと解すべきである。しかし被告乙子が原告の許に赴くことを困難ならしめる事情としては同被告が三河島において月尾診療所を開業していること以外、他の特段の事情を認めることができないし、右の診療所の営業も被告乙子にとつて経済的な問題以外にこれを必要とする事情を認め難く、他方大割野病院に勤務する原告の許においても被告乙子及び美晴の同居生活に経済的破綻を生ずるものとは認め難い本件においては、被告乙子が原告の許に赴くことを期待できないような事情についてはなんらこれを認めることができないことになる。したがつて被告乙子が悪意で遺棄されたとする被告乙子の主張もまた理由がない。

よつて次に原告には本件婚姻を維持し難い重大な事由があるとする原告の主張について考える。上段認定のとおり、原告と被告乙子の婚姻生活は、先ず、被告コヒサが原告の経済的に働きがないことを不満としてこれを嫌つたり、被告乙子に対して原告との離婚を強く、すすめるに至つたことなどに影響を受けて被告乙子も次第にこれに同調し、内向的性格の原告を説得して母校における研究を断念させ、臨床医として勤務することをすすめて夫婦別居の生活をきたし、問題解決のための積極的な努力をしない原告の態度も相俟つて、夫婦間の意思が次第に疏通を欠くことになつたものであり、更に経済的問題について不快感を与えられている原告に対し、一旦購入した原告所有名義の家屋を売却して、被告コヒサ借受名義の家屋で、被告乙子経営名義の診療所を中心とする生活を要求し、原告の被告輝子に対する信頼感を失わせ、更に自己の専門科目である外科の研究を兼ねて大割野病院に原告が赴任したことに端を発してその後直ちに被告輝子が離婚を前提とした慰藉料請求財産分与請求の調停の申立をなし、且つ原告に不貞があるとして、原告の恩師に対して中傷の手紙を出すに至り、そのため遂に、原告に婚姻維持の意思を喪失させたものである。右の事情は原告の内向的性格と積極的な問題解決への努力が足りない点並びに大割野病院への赴任がその発端をなしたとはいえ、なお被告乙子にも責任のある原因によつて本件婚姻を維持し難い重大な理由が生じているものと解することができる。

以上判示のとおりであるから、民法第七七〇条第一項五号を主張して被告乙子との離婚を求める原告の本訴請求は理由がある。しかし悪意の遺棄があるとして離婚を求める被告乙子の反訴請求は理由がない。

次に原告・被告乙子間の子美晴の親権者の点について判断するに、上段認定のとおり美晴は昭和二九年一〇月の出生であり、いまだ幼年期にあるものといわなければならないこと、及び被告乙子本人尋問の結果、同被告が医師の資格をもち現に診療所を経営してその住所も収入も安定していることが認められるのであるから、美晴の親権者としては被告乙子を指定するのが相当であると認める。

次に原告主張の慰藉料請求について判断するに、本件婚姻は上段判示のとおり、被告コヒサの原告に対する不満に影響され、被告乙子の原告に対する生活態度が積極的なものとなり、原告の内向的性格と消極的な受身な生活態度が自ら被告乙子に対する不満、不信をつのらせ、遂に被告乙子が原告を恩師に対して中傷するに至つて婚姻が破綻したものである。ところで婚姻維持の責任は、その性質上、原則として当事者にあるものと解すべきである。したがつて第三者に婚姻破綻の責任があるとなすためには当事者双方になお婚姻継続の意思がありその努力をなしているにかかわらず、客観的にみて婚姻を継続し得ないような事態を惹起せしめたことを要するものと解すべきである。本件においては被告コヒサは被告乙子に対し、その生活態度について影響を与え、また原告自身に対しても、被告乙子に対する不満を惹起させたことを認め得るけれども、結局その破綻は被告乙子自身の行為により生じたものと認めるのを相当とし他に被告コヒサに婚姻破綻の責任を帰せしめるべき資料はない。原告の被告乙子に対する慰藉料請求は理由があるけれども、被告コヒサに対する右請求は理由がない。

そこで進んで慰藉料額の点について判断するに、上段認定のとおり、本件婚姻の破綻については原告においても、その維持に対する努力が不充分であつたことを認めることができるので、前判示諸事情その他本件に顕われた一切の事情を勘案して、被告輝子の支払うべき慰藉料は金三〇万円を相当とする。

次に被告乙子の慰藉料請求の点は上叙判示のとおり反訴離婚請求が理由がないのであるから、右請求を前提とする慰藉料請求もまた理由がない。

そこで被告乙子の財産分与の請求について判断する。被告乙子の離婚請求が理由のないことは上段判示のとおりである。しかし財産分与の請求は離婚した配偶者が請求し得る権利であるから、自ら離婚請求をなしていない場合においても、相手方の離婚請求訴訟に附随して人事訴訟手続法第一五条に従い財産分与の請求をなし得るものと解する。よつて進んでその分与の是非、額及び方法について審按するに、弁論の全趣旨から、原告及び被告乙子が婚姻後得た財産としては別紙記載の不動産のみであり、その時価は敷地借地権価格を含み金一〇〇万円相当であることを認めることができる。原告本人尋問の結果(第一、二回)の一部、被告乙子本人尋問の結果の一部によれば、右建物は当初金八〇万円で購入しその後増築費用として金三〇万円を要し、そのうち直接、原告及び被告乙子の生活余剰の金から支出した金額は一〇万円で、その余は他から原告名義の借入金で賄つたものであること、借入金中いまだ未返済のものは二〇万円であり、その余は原告が被告乙子との生活期間中に支払済であること、原告は本件建物の外、建物は所有しないが、被告乙子は月尾診療所を借り受けて同所で開業中であること、原告は昭和二四年三月日大医学部を卒業し、昭和二九年中木村医院において月収一万五〇〇〇円、同年一二月から昭和三〇年九月まで重内炭鉱診療所に勤務して月収金三万八〇〇〇円、その後勤務先を変更したが同年一一月から昭和三三年八月頃まで月収四万円位を得ていたこと、被告乙子は昭和二三年三月東京女子医専を卒業し昭和二八年頃より大石病院に勤務して当初月収二万五〇〇〇円位を得、その後済生会病院に勤務して、その昇給分は不明であるが昭和三二年暮頃まで勤務し、その頃以降は月尾診療所を開設して働いていたことを認めることができ右認定に反する原告、被告乙子の各供述部分は信用できない。そうすると原告に比し医師としての経験年数が小なくない被告乙子の収入は、昭和三二年までに原告に比し大差のない割合による相当分の昇給があつたものと推測でき、且つ特別の事情のない限り開業医としても勤務医より収入が少ないものと推認できないので、被告乙子の収入は必しも原告より尠ないものとは認め難いところである、以上の判示事実と上段認定の婚姻破綻までの諸事情、被告乙子に対する慰藉料請求として金三〇万円を認容したことを併せ考え、原告は被告乙子に対し金四〇万円を支払う方法によりその財産を分与するのを相当と解する。

上来判示したとおりであるから結局原告の被告乙子に対する離婚請求並びに慰藉料請求中金三〇万円の支払並びにこれに対する賠償請求事件の訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和三六年一〇月二六日以降右金完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度は理由があるからこれを正当として認容しその余は失当であるからこれを棄却し、被告乙子の反訴離婚請求、慰藉料請求は理由がないからこれを棄却し、財産分与としては、原告に対し金四〇万円の支払をなさしめることとし、親権者の指定についてはこれを主文掲記のとおりに定め、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九一条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 小河八十次)

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